Jaspella Gospel Guide
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すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11:28

A・B・シンプソンの生涯
第十章 「雲の柱と火の柱」

   シンプソンは、健康が回復すると直ちに、十三番街の長老教会に戻って、牧師としての義務を遂行しはじめた。彼はまるで、死刑の宣告を受けた男が、全くゆるされたような気持ちだった。太陽が東から顔を出すように、希望がよみがえって来た。そして、彼の計画は再び、福音の伝わっていない幾百万、幾千万の人々の挑戦に答えるために、天がけった。

   大衆に向かって手を差し伸べたいという昔の衝動が、今度は押しつぶさんばかりの勢いで彼に迫って来た。彼が十三番街教会の牧師としての招請に応じたのは、二年ほど前だった。そのとき、「未開拓の大衆に伝道する運動については、新しい教会役員の明確な理解の下に、彼と協力一致する」ということになっていた。ところが教会側では、その約束をきちんと守ってくれたことは一度もなかった。彼らには、彼のしている事がよくわからなかったのだ。新しい牧師が来たとき、彼の働きから、新しいいのちの衝動を受け取ったものだった。出席者は増加し、多くの新会員が加えられた。しかし、二つの点で調和できなかった。「彼らは尊敬しうるキリスト者たちのための伝統的な教区を望んでいた。ところが、牧師の望んでいたものは、取税人や罪人たちの群衆だったのである」と、シンプソンはのちに説明している。彼らを、自分に従うように霊的に導くことができないのなら、彼らから妨害されるのもいやだった。彼は自分の頭上に輝く星に従わなければならないのだ。そこでついに、この教会を辞して、自分の働きを開始しようと決心した。彼はこの決心をするために、一週間を祈りで費やした。自分の知恵には頼むまいと思っていたからである。
「彼らは、友情をこめて私を送り出してくれた。非常に重大なこの危機を、なんらの緊張感をも交えないで乗り越えることができたことは、大いなる喜びである」と彼は言っている。

   彼と教会との関係が、常にあたたかい、思いやりのある状態を保っている間に、彼は、二つの事から、教会を辞するだけではなく長老派のグループからも退くべきだと感じはじめた。その一つは、数か月前に経験した神癒の体験だった。この事から、彼の団体の同労者たちは、彼に対してあまりよい態度を示さなくなっていたので、自分が彼らにとって困った存在になっていたことが彼にはよくわかった。もう一つは、聖書の教えに従うならば、浸礼の教理を取り入れるべきだと感じたことだった。彼は、奇跡的な健康回復ののち、浸礼による洗礼を自分から受けたのであった。そして、長老教会の規則によって、求められれば、なんの力もないみどりごに滴礼を施すということに、もはや良心はがまんできなかった。

   おもしろいことに、彼は神学校時代、滴礼支持に関する論文を書いて賞を得たことがあった。そして今、昔の論文の正統性をもは信ずることができず、自分の教会から去ろうとしているのだ。

   教会を辞して、ひとりでニューヨーク市内の大群衆に伝道しようという決心は、だれが見ても、全くばかげた事にしか思えなかった。牧師としての彼の収入は、年に五千ドルあったのに、これからは、収入が全くなくなるのだ。しかも、七人の家族を養わなければならなかった。彼の行為は狂気のさただった。市内の教役者の中には、はっきりと、「あの優秀な若い牧師はとうとう理性を失った」と公言する者もいた。自分の健康を神にゆだねるというのも愚かな事だが、日々のかてをもゆだねるに至っては、全く狂気としか思えない! そのニュースが発表されてから、ある朝、教会の長老たちがは牧師館を訪れ、シンプソン夫人に向かって哀悼の意を表したのだった。彼らは、「まるで先生のお葬式に来たような気持ちです」と言った。のちにシンプソンは、そのときの事を、ユーモアたっぷりにこう言った、「きっと妻も、私はもう死んだも同然だと思っていたでしょうな」。

   預言者の妻の歩く道は、決してなまやさしい道ではない。彼女は、必ずしも夫の幻が自分にも見えるわけではないが、しかしなお、妻として、夫が幻によってどこへ導かれようと、ついて行かなければならないのだ。それゆえ、人生の大部分を、信仰によって、それも夫の信仰によって歩くことを余儀なくされる。シンプソン夫人は夫を理解しようと努力したが、時々、献身的で非実際的な夫に腹をたてるようなことがあっても、それほどとがめられるべきではないのである。裕福で、社会的にも高い位置から、突然、貧困と追放の身となったうえ、どうにかして大家族を養わなければならない。しかも収入は全くないのだ。俸給は停止になり、牧師館は明け渡さなければならない。彼女は平静を装おうと努めたが、内心では気違いのようになっていた。夫が落ち着き払って、「さあ、マーガレット、落ち着きなさい。神様が与えて下さるよ」と言っても、彼女にはたいして役にたたなかった。シンプソンは、「ここから出て行きなさい」という神の御声を聞いていたので、少しも恐れを感じていなかった。しかし、夫人は何も聞いていなかったのに、とにかくここを出なくてはならないのだ。時々彼女があまり共鳴しなかったと言って、多くの人が彼女に反感をいだいているようであるが、いつも遠い所を見つめてうわのそらでいる夫の広い視野の中に自分を押さえ続けてきたことは、永遠にほめたたえられてよい事なのである。A・B・シンプソンのような男の妻であることは、決して容易な事ではないのだから。

   シンプソンは時を移さず、新しい計画を遂行しはじめた。まず新聞紙上に(新聞社は、何かの理由で常に彼に関心を持っていた)、八番街にあるカレドニア会館という安手の場所で、日曜日の午後、市の霊的必要に関して説教を行う旨を発表した。そして特に、前の教区民は出席しないでほしいと付け加えた。十三番街教会の統一を乱したくはなかったのだ。しかし、二名の者が、彼の希望を無視して出席した。また、かなりの人々が出席しないようにと通告されていたにもかかわらず、相当の群衆が集まって来た。その日の午後彼は、ニューヨーク市内の大衆に福音を伝えるため、この運動を続けて行うつもりであると公表し、関心のあるかたは祈りと相談のため集会のあとで残ってほしいと言った。その招きに応じたのは、わずか七人しかいなかったが、彼らは失望しなかった。そして、ひざまずくと、自分たちの貧しさ、少数であること、弱さを、神に感謝したのである。それから「自分たちを聖霊の力に明け渡した」。これは、使徒行伝時代以来、全世界伝道にかけては最も強力な団体になったものの始めとしては、いささか不面目なはじまりであった。

   こうして、日曜日の集会はカレドニア会館で続けられ、週半ばの集会は、シンプソンの家で行われるようになった。日がたつにつれ、出席者数は非常な勢いで増加していった。そして、何十人という人が群に加えられた。やがて、最も簡単な形の規約を作って、小さなグループが組織された。新しい運動は前進して行った。牧師は小さい群れを持ち、群は自分たちだけの精神を持っていた。彼らは皆、伝道のために外に出て行く人たちだった。すべての人が出て行って伝道し、罪人たちは群の中に加えられていった。

   A・B・シンプソンはいまや輝かしい存在だった。彼は、キリスト教民主主義の、単純で最上の例をそこに見ていた。教会員は、社会的階級によっては少しも分け隔てされなかった。彼らの中には、貧民街の人々から上流階級に至るまで、あらゆる人々がいた。見知らぬ人も貧乏な人も、両手を広げて受け入れられた。能弁で学識のある彼らの牧師は、疑いもなく、貧乏で満足し、かっさいを惜しまない指導者であった。

   何年かたつうち、シンプソンにも教会員にも、運営上の固定した建物が働きに都合のよい市の中心地に近い所に必要であることがわかってきた。そこで、タイムズ・スクエアからわずか五十メートルほどしか離れていない、八番街と西四十四番街の交差点のかどの所に、適当な場所を選び、新しい建物のために直ちに設計図が作成された。定礎式は一八八八年の秋に行われ、一八八九年五月には完成した。

   全会衆は、非常に喜びつつこの新しい会堂に移り、すぐさま、自分たちがそのために献身していた働きに取りかかった。彼らはそこをゴスペル・タバナクル(福音教会)と呼び(もっとよい名を考えつかなかったのだろうか。しかし、これが明晰なシンプソンの心の中での、一つの不幸な盲点だった。彼はもっともらしい名前に決して満足できなかったのだ)、ここが彼らの新しい基地となったが、その働きは今なお続けられている。そして、働き人たちは、車輪の中心から輻が出ているように、ここからはじき出て行った。このころの彼の教会は、大会衆を擁しており、人々は、まるで夕方、すずめが古い煙突の回りに集まるように、この福音センターに群がり集まって来た。牧師の名声と、その独自な働きに対する驚きは、遠くまで広がって行った。

第十一章 「城壁の外へ」



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