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この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。 使徒行伝4:12
A・B・シンプソンの生涯 死ぬ二年ほど前から、シンプソンの活動はしだいに鈍くなり、仕事の上の責任もだんだん軽くなっていった。こうなったのはよい事であり、また摂理によるものであった。もし彼が全盛時代に不意に去るようなことがあったら、だれにもできない仕事を残して行かなければならなかっただろう。しかし、責任は、彼の肩から、もっと若い力強い人たちへと徐々に移されていった。指導権は、彼から後継者へと、きわめて自然に、争いもなく受け継がれていった。 体力が衰えてゆくにしたがい、彼は自分の義務を、彼が愛情をこめて「兄弟たち」と呼んでいた人々へと、しだいに移していったのである。これらの人たちは、シンプソンが長い間悩まされていたいろいろな重荷を、彼の心から取り去ってくれた。助手たちは、タバナクルの講壇に居並び、彼の下につく役員たちは、種々の会合の司会をしはじめていた。シンプソンは、四分の一世紀以上もの長きにわたって導き、輝かしい業績を上げた自分のグループの協議を、家長らしい落ち着きをもって、すわって静かに眺めていた。人々は、そのいすにだれか他の者がすわっているのを見なれてしまった。シンプソンは、いつでも地上を去る準備ができていたので、彼の「兄弟たち」は、彼なしで続けてゆくことを学ばなければならなかったのである。 詩人のロングフェローが棺の中に横たえられたとき、会葬者の中に、老随筆家ラルフ・ウォールド・エマソンが混じっていた。彼は、その特徴であった静かなふんい気を漂わせながら、へやの中に入って行った。そしてしばし友の顔をじっと見つめ、それからうやうやしく言った、「ここに横たわっている者が美しい魂の持ち主であったということ以外、私にはだれだか思い出せない」。新世界(注--アメリカのこと)が生んだ最も偉大な精神の持ち主エマソンは、こう言って顔を曇らせたのである。 シンプソンの晩年には、何かこれに似た事が見られた。彼の消耗しきった頭脳は、いつもの思想形態を維持することができなくなっていた。月日がたつにつれ、大部分の時を「肉体の外で」生きているのかと思われるような、放心状態の時が多くなった。友人には心からのあたたかいあいさつをしたが、相手がだれだかわからないでいるのを、友人たちは感じたものだった。 しばらくの間、彼は霊的にもまた曇っていた。主の御顔が自分から隠れてしまったと言って、最も貴重なものを失って苦しんでいる人のように悲しみに閉ざされた。彼が、自分の「兄弟たち」の必要を感じたのは、そのようなときだった。そして、彼らは忠実に、優しく、彼の悲しみのとき、そのそばに立ったのである。長い間彼の友人だった人々、宣教師や牧師たちは、次々と彼を訪れ、彼が眠ろうとするときはそのベッドのそばにひざまずき、また家のそばの小道を散歩するときは、彼と腕を組んで歩いた。このような事が二、三週間続いたのち、彼は、失っていた最も愛するおかたの臨在感を再び感じはじめた。そのときの彼の喜びは、まるで子供のように純粋だった。それからはもう霊的な陰に閉ざされることはなく、ただ、生涯絶え間のなかった労苦のために燃え尽くしてしまった精神がぼんやりするだけだった。 肉体は衰え、精神は曇っていても、愛情はその心から泉のようにわき上がっていた。ある宣教師の二歳になる女の子が一時彼の家にいたことがあったが、彼はこの小さな子を特別に愛した。母親は、どのようにシンプソンがこの幼児をそばに引き寄せ、目がよく見えなかったので彼女の小さな顔に触れて優しくほほえんでいたかを人に話した。宣教師や教職者たちはしばしば彼を訪れて、頭に手を置いて祈ってもらったものであった。こうしてそこを去るとき、神の臨在の中にいたことを感ずるのだった。 一九一九年の春、彼は軽い脳溢血の発作を起こした。しかし十分に回復して、その夏には、家の回りを歩いたり、時々友人を訪問したりすることができるまでになった。十月二十八日火曜日、自分の団体から出た宣教師のために、長い期間の祈りを約束した直後の事だった。玄関の前のポーチにすわっているとき、突然深い昏睡状態に陥り、二度と回復しなかった。家族は一晩じゅうそばに付き添ったが、翌朝、彼の重い呼吸はやみ、疲れきっていた肉体はついに永遠の休息にはいったのである。
そのあとに来るのは、労苦の多い生涯を送った者の持つ、深い、ほんとうの意味の眠りだった。妻のマーガレットは、その後数年間、彼の思い出にふけり、楽しむことのできたときに心から貴重に思ったことのなかった、失われた時の事を思い返しては、夢見て過ごしていた。夫が、この世を去るまで、どんなに自分の命を吸収していたか、彼女は気がつかなかったのだ。ひとりになったマーガレットの人生は、二度と真の人生ではなくなってしまった。友人が尋ねて来ると、彼女は、かって彼がそこにいたことによって神聖な場所となった家の回りを指さしてはこう言った。
ゆるやかな堂々たる流れを海に注ぐ大ハドソン川は、ナイヤックに至る手前の所では、まだ未熟な大望をいだいたままの姿で、正常なときの川幅よりふくれ上がることが幾たびもある。人々は、この広い水の広がりをタッパン・ジーと呼んだ。夏の朝、パリータウンの向こうの山々の頂から太陽が上るときには、燃えるような赤い縞を青い水の上に描き出し、晴れた冬の夜には、月の通る道を横切って流れる川の面に、金色のさざなみが広がるのを、人々は見るだろう。この川から西に向かってしだいに高くなっている山の中腹に、人々はシンプソンのからだを横たえたのであった。 こうして彼は、ものうげにうずくまっている小さな町ナイヤックの町を見おろす所で、うなずいたりからだをゆすぶったりしている高い老木に囲まれて、眠っているのだ。彼の墓のそばにある小道には、毎日、教室にあるいは礼拝に出ていく学生たちの姿が見られる。彼の休息は深いから、そばを通る足音も彼の眠りを妨げることはない。若いキリスト者を教育することは、彼が生涯で最も愛していた仕事の一つだった。もし彼が、宣教師養成学校の敷地の山の斜面にこだまする青年男女の明るい叫び声を今も聞くことができるなら、それは、彼の耳には、たえなる音楽としえ響いたことであろう。 |
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