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そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
エペソ人への手紙 2:19
下記の文章は第三者によるものであり、当サイトではその内容に関する一切の責任を負いませんのでご了承ください。

医学的見解に基づく十字架

「愛の激痛」

マーク・イーストマン医学博士
高木潤 訳

1998年4月掲載 (http://www.khouse.org/)
2001年6月日本語訳


イエスは十字架にかけられる前の晩、弟子たちに、ある家の二階の部屋で、彼の三年間の 宣教の中でもっとも重要な真実を明かしました。天の父である神と、キリストであるイエ スの愛を話し、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ヨハネ 15:13と教えたのです。弟子たちはこれを聞いた時点では、イエスの明かした真実を 理解できませんでしたが、数時間後に現実にこのイエスの教えの真意を理解することにな ります。ここにも見られるように、数多く聖書に含まれる超自然的(Supernatural)な物 事は、多々として非常に簡単で、浅すぎるかのような説明で記述されています。私たちに は理解できないような事実について、いとも簡単に説明している個所の代表的な一つに、 イエス・キリストの十字架による処刑が挙げられます。ローマの総督であったポンテオ・ ピラトによる裁判によって、イエスは何の罪もない事が証明され、宣言された後、ピラト はイエスをユダヤの民衆による裁判にかけるように、人々の前に引き出しました。ユダヤ 人の指導者を含む、そこに集まった民衆は、イエスの運命を決める権利があるのを知ると、 「十字架につけろ、十字架につけろ」(参照1)と叫びました。そして、 この時点から先、6時間に及ぶ恐ろしい出来事は、この一行の文に要約されています。 「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。」ヨハネ19: 16

- 血の汗 -

イエスの肉体的な苦しみは、十字架にかけられる前の晩、ゲッセマネの園から始まります。 彼の弟子たちが眠っている間、ルカによる福音書に主イエスは「苦しみもだえ、いよいよ 切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(参照2) と記録されています。

人間が「血の汗」を流すということは、どこかフィクション的な表現と受け取られがちで す。しかし、希なケースですが、ヘマトハイドローシス(Hematohidrosis-血汗症)と言っ て、この「血の汗」が出ることは医学的に説明ができるのです。それは、汗腺に流れる毛 細血管が破裂する症状で、これにより、汗腺から「血液」が出る事になります。この症状 は一般に、極端な身体的もしくは心理的なストレスから引き起こされるものです。しかし、 イエスは、彼の肉体的な苦痛が恐くてこの「血の汗」を流したわけではありません。実際 に、ヘブライ人への手紙には、イエスが十字架による処刑を待ち望んでいたという記述さ えあるのです。

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、このイエスは、御自身の前にあ る喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになっ たのです。」ヘブライ12:2

- 暴行 -

イエスはゲッセマネで捕らえられた後、ユダヤ人の指導者や学者たちが集まっている、当 時の祭司長カイアファス(カイアファ)の家に連れて来られました。ここで行われた尋問 の間に、そこにいた「ある者は、イエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、 『言い当ててみろ』と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った」 (参照3)のです。

目隠しをして顔面を殴打されると、反射神経による「受け身」ができないために、目隠し をせずに受ける殴打に比べて打撃が大きく、非常に痛々しい傷になります。さらに、これ から数時間の後にイエスはローマ人から2度もの殴打を受けることになります。 (参照4)よって、これらの非道な扱いにより、 顔にひどい変形がみられたのは確実といえます。 また、顔面への殴打によって、瞼(まぶた)が腫れて目がふさがっていた可能性も強くな ります。しかし、このユダヤ人とローマ人によるイエスへの殴打と非道な扱いは、イザヤ 書52:13-14に記載されている預言の実現だったのです:「見よ、わたしの僕は栄 える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿 のように彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。」

- 鞭打ち -

イエスが総督ピラトによる裁判に引き出される前に、ローマ兵士によって、彼は鞭打たれ ました。この鞭打ちには一般に、1メートルから1メートル20センチほどの皮紐に、鉄 や骨、ガラスなどが埋め込んだものを数十本まとめた鞭を使いました。さらに一時は、鞭 の代わりに、鉄棒で囚人を殴ることもあったようです。ユダヤ人の慣習によれば、囚人た ちは、本来40回鞭打たれることになっていますが、そのうち1回は「ユダヤ人の情け」 として免除され、計39回打たれることになっています。この鞭打ちは非常に残酷な刑罰 で、受刑者の背中の皮膚は、ひきさかれ、めくれ上がり、皮下の筋肉や骨まで見えるよう になります。出血も非常に多く、大量出血によるショック死を引き起こす可能性もありま す。ゆえに、受刑者が、鞭打ちのみによって死亡することも多かったのです。イエスを鞭 打った後、ローマ兵士たちによって、イエスは拳(こぶし)と棒による2度目の殴打を受 けます。ここで、兵士たちは「茨の冠」をイエスにかぶせることになります。イエスはこ の殴打の前の夜から一滴の水も飲んでいませんでしたので、殴打、茨の冠、そして鞭打ち の組み合わせによって、致命的な脱水症状と出血多量によるなどの症状がこの時点で既に みられたはずです。これらすべてのことは、預言者イザヤの預言が実現されるために行わ れたのです。

「打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を 隠さずに、嘲りと唾を受けた。」イザヤ50:6

「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたした ちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の 受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」イザヤ53:5

- 十字架 -

「はりつけ」という刑罰は、ペルシャ人によって紀元前300から400年に開発されま した。この刑罰の方法はローマ帝国によって紀元前100年頃までに、更に改良され利用 されました。この刑は、今まで人類によって開発された刑のうちで最も残酷な死刑方法で、 「はりつけ」の刑(Crucifixion)は英語の「Excruciating」(激痛、極度の苦しみ)と言 う言葉の語源になります。この刑は当時のもっとも残忍な犯罪人や、ローマ帝国に反抗す る勢力への見せしめに使われました。

最も一般的にこの「はりつけ」に使われた道具は、木製の地面から垂直に立てられて、地 面に固定された縦棒と、取り外し可能な40キロから50キロほどの重さの横棒からなる 十字架が使われました。「はりつけ」の受刑者は丸裸にされ、受刑者の着物はローマ兵士 たちが分け合うのが慣例となっていました。イエスの場合、これは詩編22:19の実現 につながります。「わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。」「ローマ人の親 切」の表われとして、受刑者は酢とぶどう酒を混ぜたものを、一種の麻酔として与えられ ることが慣習になっていましたが、(参照5)イエスはこの麻酔を拒絶しました。これは、 イエスが麻酔なしにすべての苦痛を耐えられることを望まれたからで、イエスは最後まで 実際に耐えられたのです。使徒ペトロは、イエスについて、このように書いています。

「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わ たしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けにな った傷によって、あなたがたはいやされました。」1ペトロ2:24

この「はりつけ」の受刑者は、腕を左右に広げた状態で仰向けに寝かされた上で、取り外 し可能な横棒に釘づけされました。この25センチから30センチほどの長さの釘は、手 首の橈骨(とうこつ・radius 図1参照)と尺骨(しゃっこつ・ulna 図1参照)と手のひ ら付け根の手根骨(しゅこんこつ・carpal bones 図1参照)との間に打ち込まれました。 この釘の打ち込み位置から、解剖学的に幾つかのことが分かります。まずこの位置に釘を 刺すことによって、受刑者は死ぬまで十字架に釘付けられるようになります。(手のひら に釘をさすと、手のひらの脂肪により、体重が掛かると抜け落ちてしまいます。)第二に、 この位置に釘をさすと、上腕から手に降りてくる神経のうちで一番大きな神経束である正 中神経(せいちゅうしんけい・median nerve)に釘が刺さることになるのです。焼け付く ような激痛に加え、永久に手の機能を喪失することになることから、この神経束を傷つけ ることは、医学的に致命的で傷とみなされています。この方法は、出血が最小限に留めら れ、更に一本の骨も折らずに済むという点では、まさに聖書的に最適な場所ともいえます。

これにより聖書に書いてある
「骨が数えられる程になったわたしのからだを 彼らはさらしものにして眺め(る)」詩編 22:18
「骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる」詩編34:21
という2つの預言が成就されたのでした。

この「はりつけ」という処刑方法において、受刑者の足の位置が恐らく最も重要な事項で あったと思われます。先ず、ひざは約45度に曲げた状態で、更に足首はすねから更に4 5度ほどの角度で、十字架の縦棒と平行になるように固定されます。手首と同じ25セン チから30センチの程の巨大な釘を、足の甲側から、足の第二と第三指の骨の間に刺し、 足の裏を通って棒に打ち付けます。釘をこの位置に刺すと、足の裏に位置する主要血管の 損傷につながり多少の出血がありますが、致命的なものではありません。

- 苦難の結末 -

このような体の状態で十字架に付けられると、受刑者は態勢を維持することは難しく、長 時間にわたって体の所々が痛みだします。(図2参照)すなわち、45度に曲げられたひ ざによって、受刑者はももの筋肉で全体重を支えることになりますが、ひざを45度に曲 げて5分程立ってみれば分かるように、ももの筋肉で体の全体重を長い間支えるのは、不 可能に近いことなのです。そして、ももの筋力が低下すればするほど、今度は体重が神経 の損傷によって麻痺している腕と肩にかかってくることになります。結果、十字架にかけ られた後数分で、肩が関節から外れ、更にその後数分で、今度は肘(ひじ)と手首の関節 が外れてしまうことになります。この3つの関節が外れることにより、受刑者の両腕は、 20センチから30センチほど長くなるのです。

この両腕の関節が外れることで今度は、大部分の体重が胸部にかかり、これによって肋骨 は伸びきり、常に息を吸った状態に釣り上がってしまいます。(息を大きく吸って止めた 状態です)よって、息を吐くためには、足を踏ん張り、体を押し上げることによって、肋 骨の引きつりを戻さなくてはいけなくなるわけです。しかし、時間の経過と共に受刑者の ももや足首のを支える筋力が疲労によって低下し、体を長い間押し上げられなくなります。 処刑の時間が経つに連れ、受刑者が体をもち上げられる時間が徐々に減り、これによって 両腕の関節への負担が更にひどくなり、いっそう胸が引きつり、呼吸がより困難になるの です。

これらの現象が続くことによって、医学的には、幾つかの痛々しい事実が分かります。受 刑者は必要な肺の運動をできない態勢にあるため、血中酸素濃度が低下し、血中二酸化炭 素濃度が上昇します。これに対し、体の呼吸器と循環器を最大活用して、低下している血 中の酸素濃度を補給し、二酸化炭素を排除しようとするため、自然と心臓の活動が活発に なります。

しかしながら、このような状況の中では、受刑者が十分な酸素を得ることは不可能です。 しかし、体の酸素の需要を満たすために更に活発に心臓が酸素を補給するために運動し始 めます。しかし満たされない供給に対し、心臓の運動量が上昇すればするほど、体内の酸 素需要量が上昇するという、深刻な悪循環が引き起こされてしまうのです。これによって、 心臓は想像できない程早い心拍数で運動を続けることになります。この状態が数時間続く と、心筋の疲労により心拍数が低下しはじめると同時に、肺の機能の低下によって肺内に 水が溜りだし、これによって更に酸素供給が困難になります。そして、出血と頻呼吸によ って、極度の脱水症状になります。これが、イエスが十字架上で「渇く」といわれた理由 です。(参照6)

そして、肺機能の停止、心停止、脱水症状、酸素供給不能などにより、受刑者は死に至り ます。実際、受刑者は一般に呼吸困難に陥り、徐々に死に至りました。またこの刑に見ら れるような、心臓の極度の疲労により、心臓が破裂することもあります。これは医学的に 「心臓破裂」(Cardiac Rupture)と呼ばれます。つまり、イエスはわたしたちの罪を悲し むゆえに、「broken heart」(ブロークン・ハート - こころの苦痛を現す英語表現。)で 死んだのです。

「はりつけ」刑はその見せしめ的性質のため、この死へのプロセスを遅らせる目的で、小 さな木箱の腰掛けを十字架につけ、受刑者がそこに腰掛けることによって、いくらか呼吸 をできるようにしました。これにより、時に9日間も十字架の上で苦しむ受刑者もいたと いう記録が残っています。

ローマ人が、受刑者の死を急ぐ場合には、受刑者の脛(すね)の骨を折ることで、数分の 間に受刑者を死亡させることが可能でした。イエスの処刑の日、午後3時、イエスは「テ ィティラスタイ」つまり「成し遂げられた」と言い、自ら息を引き取ったと聖書に書いて あります。ローマ兵士が後に、イエスと他2人の受刑者の足の骨を折るためにイエスの十 字架に近づいたところ、イエスは既に死んでいました。よって、最後までイエスの体の骨 はただの一本さえも損なわれなかったわけです。

- どのように生きるべきか? -

イエスの死において、神の子であるイエス自身が味わったこの苦痛をこうして読むのは、 なんとも難しいことです。しかし、イエスが私たち一人一人のために、十字架を自ら望ん だ事を理解する時、イエスの計り知れないほどの大きな愛を知ることができるのです。で は、どのよう生きれば良いのでしょうか?使徒パウロがこれに最もよく答えてくれていま す。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現 れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、 神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上 のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、 『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」フィリ ピ 2:5-11


参照
1)ヨハネ 19:6
2)ルカ 22:44
3)マルコ 14:65
4)マタイ 27、ルカ 23
5)マタイ 27:34
6)ヨハネ 19:28


著者略歴:
マーク・イーストマン (Mark Eastman, M.D.)
医学博士
1984年UCSD医学部卒(カリフォルニア州立大学サンディエゴ校)
南カリフォルニアで現在も医師として活躍する



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