【てんぷる通信】

by Kayo

June 23rd, 2002
Vol. 3

「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知なのである。」
(マタイによる福音書6章8節)

  6月16日(第3日曜日)は父の日でしたね。

  父の日のプレゼントって、毎年頭を悩ませます。日本にいる妹と、「どうするー?」「何送るー?」

  母はお花を送っても喜んでくれますが、父に花束を送ったところで「ありがとう」とは言ってくれても、母が喜んでくれるほどには喜んでくれないだろうなぁ、とか、毎年ネクタイっていうのも芸がないなぁ、とか。

  今年は考えた末、ソフトシェルクラブを送りました。私の父は肉類をほとんど食べないので、シーフードの中でもアメリカっぽいもの・・・と考えて、ソフトシェルクラブにしました。

  父の日の翌日、「美味かった。おおきにな。」と1行のメールが届きました。普段、父との会話はほとんどありませんが、久しぶりに通じ合えたかな、と思えたひとときでした。

  これは、この世の、肉親の父の話。せっかくの父の日ですから、天のお父さんについても、考えてみました。まさに、「いつもありがとう」っていう言葉がふさわしいお方です。何にありがとう、って、とにかくすべてです。

  そもそも、神に向かって、「お父さん」と呼びかけられること自体、すばらしい恵みです。神さまがお父さんだということは、私たちは神の子だということになるのですから。

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。」
(ヨハネの第一の手紙3章1節)

  すべての人が神の子になれますが、ただこの世に生を受けて、生きているだけで自動的に神の子とされるわけではありません。

  私も、この世には、ひとりの罪人(つみびと)として生まれてきました。でも、聖書に書いてあるとおり、イエス・キリストを救い主として信じた時、神の子とされました。

  神が私の父だ、ということは、ものすごく心強いです。人間であれば、いくら我が子がかわいいとは言っても、かわいがり方、愛し方が、その時々の感情に左右されたり、我が子のため、と思っていても、実は見当違いだったりすることがあるかと思います(もちろん、さすが親だなー、と感動することもたくさんありますが)。

  でも、神であるなら、決して間違いはないんですよね。何かをお願いする時、それが私たちに必要なものであれば、実は私達が願う前から、神はご存知なのです。日常生活の中でのささやかなことから、人生の一大事にかかわる大きなことまで。

  反対に、私達がどんなに願っても、必要のないもの、あるいは手に入れない方がよいもの、であれば、決して与えられることはありません(いろいろな警告を無視して突っ切れば、手に入れることが可能な時もありますが)。神の判断は、100%信頼できますし、何よりも、私達のことを愛し、私達のための判断を下してくださいます。

  その中でも、私達が求めようもない、求めるすべを知らないくらい必要なもの。上記の御言葉の中にもある、「父から賜わった大きな愛」。それが、イエス・キリストでした。私達を神の子として贖う(買い戻す)ために、大きな大きな犠牲を払って下さいました。「買い戻す」のですから、ただ、というわけにはいきません。罪のある人間がいくら犠牲を払っても、罪のゆるしにはなりません。

  罪のない、神の子であるイエス・キリストだけが、人間の罪を贖うことができ、それを信じる私達ひとりひとりが神の子、とされるのです。

  神の子となった私たちは、父である神に愛され、守られ、導かれ、時には訓練を受けることもありますが(これが結構厳しくて大変なことが多い・・・)、必要を満たし続けて下さる神に信頼して生きていける特権に、預かることができます。

  父の日だけと言わず、生きている瞬間瞬間、「神様、ありがとう」と感謝を捧げながら、歩んでいきたいものです。

「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知なのである。」
(マタイによる福音書6章8節)