【てんぷる通信】

by Kayo

Octomber 28th, 2002
Vol. 7

「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、
あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、
わたしはあなたをあがなったから。」
(イザヤ書44章22節)

 今回は、コロラド州デンバーからです。来年の1月まで、ここでボランティア(インターン)をすることになりました。秋が深まってくる頃に日本を出発したのですが、ここではすでに初雪もふり、冬へとまっしぐらです。

 先日、インターンをしているオフィスから車で1時間ほど離れた、山の上にあるリトリートハウスに行ってきました。Christian Prayer Retreat House と言って、ひとり静かに祈ったり、聖書を読んだりできるところです。

 その日は、ものすごく霧の深い日でした。車を走らせるにつれ、すぐ前を走る車のテールランプもはっきりと見えないくらいに、あたりが真っ白になっていきました。運転してくれていた友人が「いつもはとっても綺麗に山が見えて、すごくいい眺めなんだけど、今日は何も見えないね。見せたいんだけどなぁ・・・」と言ってくれたのですが、残念ながら窓の外を見ても、ただただ真っ白で、なーんにも見えませんでした。どんな風に見えるのか、想像もつかなかったので、「明日の帰り道に期待するね」と、霧につつまれながら答えました。

 次の日、リトリートハウスを出発する時には、快晴!だったので、山々がとってもとっても綺麗に見えました。友人が「見せたい」と言ってくれたのもわかる、と、澄み切った空にくっきりとうつる山々を見ながら、自然って偉大だなぁ、神様ってすごいなぁ、と感動していたら、だんだんとまた霧が出てきてしまいました。あっと言う間に、前日と同じように真っ白な霧につつまれてしまって、何にも見えなくなってしまったのです。

 その時に思いました。

 昨日は、どんな景色が見えるのか、想像もつかなかったので、真っ白な霧の向こうにあるはずの山々は、私には【全然見えなかった】。実際に見えている霧しか見えなかった。

 でも今日は、さっき見た素晴らしい景色が、この霧の向こうにある、ということを知っているので、あたりは真っ白だけれど、本当なら綺麗に見えるはずの山々が、私には【見えている】。実際に見えている霧だけではなく、隠れてしまっている山々も、【見えている】。

 何度もこの景色をみたことのある友人は、昨日も、今日の私と同じように、霧だけではなく、山々も【見えていた】。

 こんなことをぼんやりと考えていると、肉眼では見えないけれど、私と一緒にいて下さる神様のことを思いました。

 神を信じていない時は、自分の目で見えるものや自分の耳で聞こえるものしかとらえられないから、見えない神のことは【全然わからない】。

 でも、「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した(イザヤ書44章22節前半)」とあるように、今までは自分のとがや罪で見えなかった神が、イエス・キリストを信じて罪がゆるされたときに、はっきりと【見えるようになる】。

 けれども、しばらくすると、まただんだんと霧がでてきます。私自身、今までに何度、「あれ、あんなにクリアだった神様が、最近かすんできた・・・」と、思ったか知れません。でも、どんなに霧が出てきても、その霧の向こうには、神様がいらっしゃることはもうわかっています。ですから、「わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから(イザヤ書44章22節後半)」という聖書の言葉に励まされて、もう一度、霧となって神様を見えなくしている罪は何なのか、自分を見つめ直す時間を取るようにしています。

 そして、先に山を何度も見てその美しさを知っていた友人が、そのことを私に伝えてくれたように、イエス・キリストのことをまだ知らない人たちに、罪が赦されて救われるということはどんなに素晴らしいことなのかを伝えていきたいのです。

 空の霧を消して山を見せて下さったように、罪を赦し、その人の目を開いて下さるのは、神様です。自分の力で信じられるようになるのではありません。イエス・キリストが命を捨てるほどに私を愛して下さった一方的な恵みを思う時、今も生きておられる神様を心から愛していこう、と真っ白な霧の中で思ったのでした。

「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、
あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、
わたしはあなたをあがなったから。」
(イザヤ書44章22節)