【てんぷる通信】

by Kayo

July 29th, 2003
Vol. 8

「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。
憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」
(エペソ人への手紙4章26節)

 ずいぶんご無沙汰してしまいました。てんぷる通信打ち切り?と心配して、励まして下さった方々、ありがとうございました。無事、復活です。NYのイーストハーレムから始まって1年以上が経ちましたが、今後しばらくは東京からお送りします。

 実家を離れて何年もたっていますが、家族と離れて住んでいる今、時折会いたくなるのは、両親や妹はもちろんですが、実は飼っている犬だったりします。携帯でとった愛犬の写真を見てはなごんでいます。日本の携帯ってすごいですね。

 そんな愛犬の名前は「アベル」くん。クリスチャンの方はもちろん、そうではない方も、アベル、という名前にはなじみのある方が結構おられるようで、有名な小説「カインとアベル」のアベルを思い浮かべられるようです。

 先日も、アベルに会いたいわ、と友人(クリスチャンではありません)に話したところ、「カインとアベル」のアベル?と聞かれたので、「それは小説のことを言っている?そのカインとアベルもだけど、聖書に出てくる兄弟の名前なのよ」と言うと、「知ってるよ。アベルって殺されちゃう人なんでしょ。」と返ってきました。

 よく知ってるな、と思ってもう少し話してみると、「でもカインって、本当にそんなに悪い人だったのかなぁ。一生懸命作った作物を神様に供えたのに喜んでもらえなかったんでしょ。ちょっとかわいそうな気もするんだけど・・・」と話してくれました。

 「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった(創世記4章2節)」とありますが、それぞれの能力や向き不向きも含めて、それぞれの役割が与えられたのではないかと思います。

 そして、収穫の時に、アベルはういごと肥えたものを、カインは地の産物を神様の前に持ってきました。でも主が顧みられたのは、アベルのささげ物だけでした。

 その友人は、「何かで読んだ説明なんだけど、カインの穀物は、自分で努力して得たものを神様に供えることで神に近づこうとする高慢な行為だって。相手に喜んでもらいたくって、自分の力で得たものを相手にあげるってすごく良いことのように思うんだけどね」と話していました。

 もし本当にカインの心の中に「これは自分の力だけで作ったもの」という思いしかなかったとしたら、確かに高慢です。でも大自然に触れながら土地を耕していたカインは、きっと、自然の偉大さを通してそれらを創造された(と認識していなくても)神を感じていたと思うのです。そして収穫の時に「たくさん収穫できたなぁ。」と満足感いっぱいでささげにいったのではないでしょうか。同じ時に弟のアベルも、飼っていた羊の中からささげものを持ってきました。

 でも、カインは自分のささげ物が顧みられなかったときに「大いに憤って、顔を伏せ」てしまいました(創世記4章5節)。

 神は、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません(創世記4章6-7節)」とおっしゃいました。

 自分も一生懸命つくったものをささげたのに、なぜアベルのささげものだけが受け入れられるのだ?と思ってしまうのは、人間として当たり前の感情だったと思います。ですが、神はただ憤っただけではなかったカインの心の中を既にご存知だったのでしょう。もし、カインが、「なぜ自分のささげ物は顧みられなかったのだろう」と神に尋ねていたら、カイン自身の成長とさらなる祝福につながっていっていたでしょう。

 でも、カインには、受け入れられなかったという事実しか見えず、その憤りはアベルへの殺意となりました。それを見抜かれた神は、「罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」と忠告されました。「怒ることがあっても、罪を犯してはならない(エペソ人への手紙4章26節)」とあるように、怒りは罪を犯すことへと直結しやすいからです。

 私たちの日常生活においてもそうではないでしょうか。腹がたつことは誰にでもあると思います。でも、その怒りをどうするか。そもそも勘違いや思い違いで憤っていることもよくあります。

 まったく怒らないでいられたら、それはそれで素晴らしいことですが、普通は無理です。ちょっとしたことでかちんときたり(私です)、自分の努力が報われなかった(ように思えた)り、神さま?と食ってかかりたくなるようなことがしょっちゅう起こります。

 でもそんな時に、一度立ち止まって、その心を神に向けることができたら、見えていなかったことが見えてきます。ある出来事に対して憤っているようでも、実は他人の成功に対する妬みが原因だったり、自分も同じ失敗をするかも知れないということは忘れて、他人の失敗によって自分が受ける被害だけに心が奪われたり。

 そんな自分の弱さや醜さを知るとき、キリストの十字架は私のためだったのだ、と改めて思うのです。本来の私たちの性質は、「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない(ローマ人への手紙7章18節)」という聖書の言葉どおりです。

 ですが、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。(ローマ人への手紙6章6節)」とあるように、キリストが死なれたのは自分のためだと信じる時、「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる(ローマ人への手紙6章8節」)」という言葉をも信じることができます。

 カインは憤ったままアベルを野原に誘い、殺してしまいました。でもキリストを信じる私たちは、憤りを覚えることがあっても、その感情を神に明け渡し、取るべき行動、語るべき言葉を神に教えていただくことができます。

 怒りや憤りはのような感情は、長引かせないことです。苦い思いが自分の中に深く根付く前に十字架を見上げようと、いつも忘れないでいたいと思います。

怒ることがあっても、罪を犯してはならない。
憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」
(エペソ人への手紙4章26節)