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夏らしくないお天気が続いていますが、8月も後半です。今回、滋賀の実家に帰省中、久しぶりに台風直撃を経験しました。家中の雨戸を閉めて(閉めたのは父)、暴風と大雨が通り過ぎるのを待ちました。電車が運行停止になる可能性もあったので、大阪で友人と会う予定もキャンセルして、家でじーっとしていました。 翌朝、2階の雨戸を開けていると(開けたのは母)、ベランダにはとのひなが落ちていました。体が冷たくなってしまってはいるものの、かろうじて生きているようでした。近くにあった巣が台風で吹き飛ばされてしまったようで、親鳥の姿も近くには見当たりませんでした。 そもそもはとのひな自体、間近で見たことがなかったので本当にはとのひななのか、あるいは他の鳥のひななのか、あとで少し調べてみたところ、おそらく生後3日もたっていなくて、目もあいていない生まれたてのはとのひなでした。うすい黄色の毛がもよもよと生えていて、小さなからだに似合わない大きなくちばしです。 とにかく暖めてやらなければ、と、ティッシュにくるんで手の上に乗せ、暖め始めると、少しずつひなの体に温もりが戻ってきました。かたかた震えていたのもおさまったので、ご飯をお湯でつぶしてやってみました。(インコや文鳥のひなを飼ったことのある方はご存知だと思いますが、ひなの口の中に餌を押し出してやれる餌やり器?がありますよね。)まだ目は半分しか開いていませんでしたが、しっかり食べていたので、ほっと安心しました。 夕方、ぴぃぴぃ、というよりは、ひぃひぃ、に近いような声で鳴いているひなに買ってきた粟の餌をやりながら、聖書の言葉を思い出していました。 「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。(マタイによる福音書10章29節)」 巣から吹き飛ばされてしまったこのひなのことも、神様はご存知なんだ、と思うと、偉大な神様の細やかな心遣いを知ることができたようで、うれしくなりました。 冒頭の言葉は、「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな(マタイによる福音書6章25節)」という文章に続いています。そして、「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう(同6章34節)」と続きます。 家族と一緒に住んでいた巣をなくし、親鳥からはぐれてまったこんな小さなひなにも、暖かく眠れる場所と餌を与えて下さっている神様は、私たち人間にも、生きていくために必要なものは必ず備えて下さいます。神がここで言っておられるのは、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう(同6章33節)」ということです。 私たちは毎日の生活に追われ、明日は何を着ようか、何を食べようか、ということにばかり気をとられがちです(もちろん、食事も清潔な服装も大切ですが)。私たちがこうして生きていられるのは、命を与え、糧を与え、必要を満たして下さっている神がおられるからです。私たちの一切の必要(あくまでも、必要、です。贅沢をするための欲望、ではありません)をご存知の神は、この地上で生きていくためだけではなく、死後に続く永遠での必要も与えて下さいました。それがイエス・キリストです。 私たちがこの地上での生活を終えると、肉体はもとのちりに戻ります。いつまでも形が残るわけではありません。でも、霊は永遠に残るのです。「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る(伝道の書12章7節)」とあるとおりです。本来、私たちが支払わなければならない罪の報酬である死を、キリストが十字架上で死に、三日目によみがえったことによって死に打ち勝たれたことを信じるとき、私たちも新しく生まれ変わった者とされるのです。生きておられる神をを第一とするとき、必要は必ず満たされると聖書は語っています。 元気になったひなは、二日後、お隣りにもらわれていきました。夏休み中の小学生の男の子が、お母さんと一緒に大事に世話をしてくれています。ひとりで飛べるようになって、自然に帰れる日も、そう遠くはないことでしょう。 神様が私を養って下さっていること、そしてこれからも必要を満たしていって下さることを、改めて感謝した出来事でした。
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