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少しずつ春の気配が近づいてきました。時折風は冷たいものの、日が長くなってきたのを感じます。もう3月ですね。 お正月なんてずいぶん前のことのようですが、新年を迎えたときに『今年の抱負』を考えた方もおられるのではないでしょうか。 新しい年になったり、新しい仕事に就いたり、というような何かが新しくなるときというのは、「新年の目標」、「今日から心がけていくこと」など、自分の何かを変えよう、とするいい機会・きっかけになるのかも知れませんよね。 私はあまり「今年の目標」というものをかかげたことはありません。というのも、私の場合、元旦に決めたことを、12月まで実行し続けられるわけもなく、春になる頃には、「何だったっけ?」と思い返すことすらなくなっているからです。 でも、『(私のための)今年の聖書の言葉』として聖書の言葉をひとつ決めると、不思議とその言葉はことあるごとに思い返します。何かを選択・決断しなければならないときや、つらいときなど、その都度聖書の言葉の中に励ましや慰めを探しますが、結構今年の言葉がぴったりくる場合があります。 自分でたてた目標はすぐに忘れてしまうのに(もちろんしっかり覚えていて1年かけてそれを成し遂げる方もおられると思います。これは、私を含めて、ちょっと意思が弱いかも、と思って共感して下さる方の場合)、聖書の言葉はどうしてちょこちょこ思い出せるのかな、と考えました。 これは「自分でしなければならない」ものではないからではないかと思いました。何だか甘えたことを言っているようですが、難行苦行(そんな目標をたてる人もあんまりいないでしょうけれど)を常に心にとめておくことは、かなり自分に厳しい人しかできないかも知れませんが、神様が下さる恵みのことは覚えていられるのではないかと思ったからです。私にとって神様からの恵みというのはたくさんありますが、そのひとつひとつのことを思いめぐらせると、イエス・キリストに、そして聖書の言葉にたどりつきます。 クリスマスでは、神からのプレゼントであるキリストの誕生をお祝いしました。罰当たり、とよく言いますが、間違ったことをしたり悪いことをしたら罰が与えられるのは当然のことです。でも、私たちが受け止め切れない罰、それが罪によってもたらされる永遠の死です。それを神自身の手で清算して下さいました。そのために生まれてきたのがイエス・キリストです。 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(ヨハネ第一の手紙4章10節) 神が私を愛して下さっていて、キリストが十字架にかかって死に、よみがえったのは私のためだったと信じるとき、神が私の毎日の生活を気遣っていて下さることがわかります。 今年1年、きっといろんなことが起こってくると思います。 いいことも、悪い(と思われるような)ことも、仕事で認められて昇進するかも知れないし、病気になるかも知れない。素敵な恋人にめぐり合えるかも知れないし、愛する人と別れることになるかも知れない。私自身、この2ヶ月ですでに多くのことにぶつかっています。災難の方から私めがけてぶつかってきているんじゃないかと思うこともありました。 でも、すべては神が「災いではなくて将来、希望を与える」と約束して下さっているのなら、どんなことが起こっても、この言葉を思い出して、しっかりと歩んでいきたいと思うのです。
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