【てんぷる通信】

by Kayo

November 20th, 2006
Vol. 11

「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」
(ネヘミヤ記8章10節)

 前回から約二年半ぶりの更新です。大変ご無沙汰してしまいごめんなさい。結婚して、東京から千葉へと引っ越しました。今後しばらくは千葉からお送りします。

 11月の第4木曜日はアメリカでは Thanksgiving Day ですね。Macy's のパレードや翌日からのSaleがとっても楽しみだったのを思い出します。

 Thanksgiving(感謝祭)は、1620年、メイ・フラワー号に乗って今のマサチューセッツ州にたどり着いた清教徒たちが、厳しい最初の冬を越え、翌年、収穫の感謝を神にささげたところから始まったと言われています。

 現在では、遠く離れて暮らしている家族や友人同士が集まるいい機会となっているようで、歴史的な意味は薄れてきているようにも思えますが、せっかくなので「感謝」について考えてみました。

 当時の清教徒たちの数は、この最初の冬が終わる頃には半分以下にまで減っていたと言われています。そんな状況の中、慣れない土地で彼らがした苦労は半端なものではなかったことは容易に想像できます。そして、その苦労の結果の収穫を、まず神に感謝したのです。

 最近、感謝したことって何だろう、と考えてみました。調子のいい時は、今日も元気に目が覚めて感謝、住む場所があって、仕事があることに感謝、と何気ないひとつひとつに感謝。でもいったん調子が悪くなると、眠り足りない、もっと広いところに住みたい、もっと条件のいい仕事がしたい、とすべてが不満になっていきます。

 同じ状況でも、受け止め方によって感謝にもなり、愚痴にもなるんだな、と改めて思いました。

 清教徒たちも、アメリカに来た翌年の収穫を感謝することもできましたし、反対に、家族・友人をこれだけ失ったのだから、これくらいの収穫は神が与えて下さって当然だ、足らないくらいだ、考えることもできたでしょう。

 でも、彼らはまず神に感謝することを選びました。今のようにあたたかく焼けたターキーも、パンプキンパイもなかったでしょうし、去年までは一緒に過ごしていた仲間も半分以上は死んでしまった。でも、収穫を与えて下さった神に感謝しました。

 ないものに目をとめるのではなく、あるもの、与えられたものに感謝する、ということは簡単なようで、実はなかなか難しいと思います。

 清教徒たちのように厳しい状況ではないにしても、彼らが失ったものではなく与えられた収穫に感謝したように、私も日々の生活の中で、失ったもの、手に入らないものを嘆いたり、そのことで神をうらんだりするのではなく、与えられているもの、今あるものに感謝できるようになりたいと願います。

 小さな感謝の積み重ねが、心のゆとりにつながり、精神的な落ち着きにもつながります。そして、少しずつ人格が整えられていくのではないでしょうか。

 理想の人格は、イエス・キリストです。不当な裁判にかけられても「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず(第一ペテロ2章23節)」「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた(同24節)」のです。

 このイエス・キリストが私の罪のために十字架にかかって死に、三日目によみがえられたことを信じるとき、素直に、神に生かされていることを感謝することにつながるのではないでしょうか。そして、それが生きる力となり、人間としての成長にもつながるのではないでしょうか。

「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」
(ネヘミヤ記8章10節)