一期一会

「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」 
 新約聖書・マタイによる福音書 5章4節

今年(2020年)3月、ニューヨーク州知事は、新型コロナウイルス感染拡大阻止のため、企業や学校などに対して、出勤や登校を禁止し、自宅にとどまらせることを義務付けると発表。

ニューヨーク市では、大勢の人々が病気により死亡。葬式ができないどころか、多くの遺体が市内にある島などに埋められたり、葬儀屋付近のバンの中に放置されていたり、混沌としていた。市内で医療関係で働いてる友達もいるが、彼女達の話を聞いても、患者だけではなく同僚も亡くなったりと、相当悲惨だったようだ。

丁度2週間前は9月11日。あの日から19年も経った。あの時も、この地域に住んでいる殆どの人達が、直接の知り合いは大丈夫だったとしても、必ず周りに数人は、家族や友人知人を亡くしたという人達がいた。今回のコロナもその状況に似ている。亡くなられた方々やそのご遺族のことを想うと胸が痛くなる。

また、自分と同じ時代に日本で育ったなら、志村けんの悲報は、会ったことないのに知り合いが逝ったかのような気分になったという人も少なくなかっただろう。

あれ以来、コロナ関連以外でも、メディアでは悲しいニュースが続いた。

有名人達の自殺。特にプロレスラーの木村花選手については、会ったことさえなかったが、共通の友人知人が何人もいるので、全くの他人事というわけでもなかった。ネットを含む『いじめ』が、いかに悲惨か改めて実感させられた。

彼女の死からわずか2日後、ミネアポリスで、ジョージ・フロイドという黒人男性が白人警官に殺された。以来、その他多くの白人警官による黒人殺害事件に併せて、反人種差別デモが今尚続いている。ニューヨーク市も例外ではない。自分自身、暴力さえなかったが、テキサスに住んでた頃は、理由なく警察に止められ、人種的な嫌味を何度も言われたことがあり、当時は黒人の友達も多かったので、彼らが普段からどんなリスクを背負って生きているのか色々聞かされて、ほんの少しだが理解はしているつもり。

自分が住んでいるのは郊外なので、市内とはかなりの温度差があり、(少なくとも表面上は)比べ物にならないくらい平和。だが、うちらのような凡人にしてみれば、先が読めない世の中に住んでるということが実感させられるのも事実。

このブログに関しては、決して書くネタがなかったとか、外出自粛で書く気分になれなかったとか、そういうのではない。暇な時間が増えたということもあり、これまでできてなかったことに思い切って集中してると、あっという間に時間が経っていった。

仕事も大幅に減っていたが、飲食店がほぼ全て閉鎖または持ち帰りや出前のみになっていたので、外で飲み歩くこともなく、収入も下がったが支出も減った。

本当に親しい友人であれば、オンラインでのビデオ通話もできる。だが、外出してないからこそ、会う機会が極端に減った相手というのも多い。

行きつけの飲み屋で知り合ったレイもその1人だ。Facebookでつながってるわけでもなければ姓も知らない(なんと「レイ・チャールズ」と名乗ってたので、おそらくそうなんだろうとは思うが…)。でも飲みに行った時に、彼がいたら必ず声をかけてくれて、色々喋る仲ではあった。

何年も顔見知りではあったが、実際によく話すようになったのは、2年くらい前だっただろうか。いつもバイクに乗ってるレイは、その店に来るのも当然バイクなので、たくさんは飲まない。こっちはバイクに興味ないし、あっちもプロレスには興味がなさそうだったが、一度会話が始まると、いつもじっくり語り合った。

そして、会う度にその前の会話を覚えていて、「旅行に出るとか言ってたけど、楽しかったか?」とか「あの件で心配してたけど、うまくいったか?」とか、必ず聞いてきてくれた。バイクを乗り回している分、どの町が楽しそうか色々おしえてくれることもあった。飲みながらの会話だし、もらった情報も記録してなかったのが残念だが…。とにかく、いつも笑顔で、落ち着いた雰囲気で親切な人だった。

そんなレイが、夕べ他界したという。書いてる時点では原因は判らないが、2日前には会って話したという人達もいるので、事故なのかもしれない。

本来なら、こんな夜こそ常連がその店に集まって彼を偲ぶはず。だがコロナの影響で、ディナー用のテーブルは客数限定で開けていても、バーは相変わらず閉めたままだ。

冒頭の新約聖書ってのは元々はギリシャ語で書かれている。日本語訳の聖書では「悲しむ人」まはた「悲しんでいる人」となっているが、ギリシャ語では「πενθοῦντες」で、どちらかというと「悼む人」という意味だそうな。

「慰められる」というのは原語で「παρακληθήσονται」で、英訳すると、「shall be called aside」という意味らしい。「招き寄せられる(べき、はず)」ということだ。つまりこの聖書箇所は、「悼む人には、神様が寄り添ってくださる」と解釈していいんだろうと思う。

あくまで、「神様が寄り添ってくださる」という意味なんだが、こんな時だからこそ仲間同士が実際に会うことができればとも思う。

とはいえ、今はまだまだ親しい連中と特に用事もないのに気軽に会えるという風潮ではないし、当然のことながら飲み屋に集結して顔見知りの常連達と共にこの世を去った仲間について語り合えるわけでもない。「寄り添う」ということが、なかなかできない状態だ。

だが、声をかけるくらいはできるのかなとも思う。

というか、こうなる前から自分は常にそうしてきたつもり。変にダラダラ書くよりも、一言「元気か? たまには連絡せぇよ。」とだけ送ってみることがほとんど。

この期間中、多くの人達が大切な人を亡くしたり自殺している。そんな中、普段以上に孤独を感じている人も多いはず。全く誰からも声をかけられないより、仮に少々「ウザい」思ってるとしても、一言声をかけられるだけで気分的に安心することもあるのではないかと思って、自分なりに続けている。

人との関わりというのは、その一つ一つの瞬間が大事なんだと、改めて実感させられる。

レイと最後にあったのは、2ヶ月くらい前だったか、まだテーブルのセクションを開けてなく、持ち帰りだけやってたその店に夕飯を注文した時。コロナさえなければ、もっと一緒に飲みながら色々語り合えてたことだろう。

「悼む者は幸いです。その人には寄り添ってくださるからです。」 
 新約聖書・マタイによる福音書 5章4節

故人の魂の癒しを祈りつつ。

RIP…