Jaspella Gospel Guide
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鼓と踊りとをもって主をほめたたえよ。緒琴と笛とをもって主をほめたたえよ。
詩篇 150:4

A・B・シンプソンの生涯
第九章 「不老の泉の発見」

   シンプソンは、ニューヨークに来てから一年もたたないうちに、突然病気で倒れた。病は重く、牧師としての仕事をすべて放棄しなければならないほどだった。

   彼は療養のためにサラトガ温泉に引きこもり、それから一年ほどして小康を得て帰って来たが、心は重かった。医者が、あといくらも持たないだろうと言ったその予言が、成就しそうに見えたのである。まるで、まだ日中だというのに太陽が沈んで行くような気持ちだった。海外宣教に対して、「はい、主よ、参ります」と答えたあの約束はどうなったのだろう。そして、「手をねじって、無言のうちに苦しみもだえている」あの群衆は----? ニューヨークの町を、うつろな気持ちをいだいて、疲れ、消耗しきって歩いていた彼、シンプソンは、そのとき三十七歳だった。

   一八八一年、プロテスタントの世界の至る所に、不思議な、霊的な息吹きが感ぜられていた。しかもそれは、どこの教派にも属していない群れの中や、因襲的な教会の神聖な教区の外で明らかに動いていた。牧師が無視しているものに対して、平信徒が目ざめてきたのである。それより少し前に、ロンドンでは、ウイリアム・ブース将軍が、平信徒伝道隊である救世軍を組織していた。国内では、ジョン・ウェスレーの流れをくむホーリネスの運動が、注目されはじめてきた。くつ屋の店員であったドワイト・L・ムーディは国じゅうを旅行し、その行く所で何百という回心者を勝ち取っていた。

   その時代の霊的な飢えかわきの中から、一つの宗教的現象が生まれたのである。それは、形式的な正統主義の擁護者によって全面的に承認されたことは決してなかったとは言え、パウロの日から現代に至るまでの福音的キリスト教というわく内における、あらゆる神学思想による、無数のすぐれた聖徒たちから愛されてきた教理によって、つちかわれてきたものだった。その一つに神癒の教理がある。人の肉体をも支配される神の主権は、何人かの著名な説教家たちによって認められていた。そして病気がいやされるという信仰をもって神に祈る信者の特権は、ヨーロッパでもアメリカでも、年々多くの人によって説かれていたのである。超自然のいやしが行われたという報告は、世界の多くの所から聞かれるようになった。ドイツのブルームハルト師は、「イエスこそ勝利者」というスローガンをかかげて、病人のために祈り、驚くべき成功を収めていた。イギリスではW・E・ボードマン博士が、アメリカではチャールズ・キュリス博士が、それぞれ、信仰の祈りの答えとして、注目に値するいやしのわざを行っていた。それほど著名でなくても、静かにいやしの宣教を行っていた人はたくさんあった。その人たちは、自分の名前や人格が宣伝されるのを、謙そんにも退けていた人たちだった。

   この点からA・B・シンプソンを理解しようと思うなら、チャールズ・キュリス博士の果たした役割を見のがすことはできない。キュリス博士はボストンの医者で、何年間か、ボストン結核療養所の所長をしていた人である。彼は、自分の療養所の患者が、希望もなく打ちひしがれているのを見て、深い同情を寄せ、忠実なキリスト者であったところから、彼らが病から解放されるように祈りはじめたのだった。すると、奇跡としか思えない、急速、かつ異例な回復が、次々と起こりはじめた。まもなく彼は、祈り以外の医療法を中止して、信仰による祈りだけで、患者の健康を回復させることに乗り出したのであった。その結果、彼は、この方法が聖書的であるという確信が与えられ、それを聖書教理の一つとして説教しはじめた。それからまもなく、医者としての職を辞して、フルタイムのキリスト者の働き人として献身し、病人のために祈りながら、方々を説教して歩いた。彼の働きは広く知られて、彼の回りにはいつも多くの人が、霊的また肉体的な助けを求めて、群がり集まって来た。

   一八八一年の夏、シンプソンは、大西洋海岸にある有名な避暑地でありまた修養会の地であるメイン州オールド・オーチャードを訪れた。彼は神経衰弱がこうじて、心身ともに病気であった。痛みと衰弱のため、かろうじて動くのがやっとという状態だった。ちょうど時を同じくして、キュリス博士は、海岸の近くにある円形劇場で伝道集会を開いていた。シンプソンはそこに出席したいと思った。この伝道集会で、彼は生涯における大きな転換期を体験したのである。それは、彼にとって革命的性格を帯びたものの一つであり、彼の海外宣教は、そこから始まったと言ってもよかった。それ以前の事はすべて、そのための準備期間だったのである。

   キュリス博士の集会で、彼は、多くの男女が超自然のいやしの体験を語るのを聞いた。彼は、自分の健康状態に悩んでいるときであったため、これらのあかしを聞くと、その事をもっと詳しく知りたいという欲求にかられた。彼が心引かれたのは、伝道者の説教や、雄弁さや、あるいは熱烈なアピールではなく、いやされた人々のあかしだった。彼は言っている、「私は、キリストの言葉を単純に信ずるだけで、魂が救われるのと同じく、肉体もいやされるというあかしを、非常に多くの人から聞かされた」。

   ここに初めて、水平線上に浮かぶ船の影を見いだしたのである。まだほの暗いとは言え、暗黒に光がさし込んで来た。そこで彼は、彼の特徴であるすぐれた頭脳と、それと同等の心とをもって、自分の前に置かれたデータを調べに乗り出したのである。彼は理性でこう判断した。すなわち、あかしをした人々には、事実を曲げて発表する動機は何もないはずだ。あかしをしても、少しも利益になるわけではない。悪い動機がそこにあろうはずがない。もちろん、彼らにもまちがいはあるだろう。しかし、そこにある二つの事実は、その憶測に対する障害とはなりえない。すなわち、彼らは病気だった。これが、まず第一の事実である。しかし今は、全くの健康体となって両足でしっかりと立っている。これが第二の事実だ。彼らは、主ご自身が自分に触れ、苦しみから解放して下さったことを信じている。もし彼らがいやされたのなら、どうして自分がいやされない道理があろうか。彼は希望を持ちはじめた。

   しかしながら、常識が彼を警戒させた。すばやい直感と、直接行動において、依然として彼はスコットランド人であり、同時に、納得しなければ何もしなかったりこうなジェームズ・シンプソンのむすこだった。彼は、これらの善意の人たちの熱意だけでは動かされなかった。自分でまずそれを知らなければならない。「それで私は、聖書を開かざるを得なかった」と彼は言う。「私が、その事について人のところに行かなかったことは、非常によかったと思う。主の御足もとにただひとりですわって、聖書を開き、他のだれの助けもも導きもなしに、これこそ、罪深い悩みの多い世のための、また主のみことばを信じて受け入れるすべての人のための、キリストの輝かしい福音の一部であると確信するに至ったのである」。

   彼は、それを体系づけようと動きはじめた。今、自分には確信がある。その教理も発見した。しかし、霊的確証がなければならない。そうでなければ前進できない。理性だけでは十分でなかった。まず神にお会いして、その教理の力を自分で体験しなければならない。自分が聖書を正しく理解し、自分の立場がまちがっていないということを、聖霊によって証拠だてられなければならない。こうしてある金曜日の午後、彼は表に出て行った。肉体の痛みと衰弱のために足取りはおそく、息切れは激しかった。彼はまるで、開かれたドアから大寺院にはいって行くように、松林の小道をたどって行った。そこには、柔らかな松葉のじゅうたんが敷き詰められ、祭壇の代わりには丸太があった。そのうえ、だれとなくかなでるオルガンの音のように、松風の響きは彼の耳を喜ばせた。彼はそこにひざまずくと、神の御顔を尋ね求めたのである。

   突然、キリストの力が彼をおおった。あたかも、神ご自身が彼のそば近くに立たれたように思われ、主のご臨在の栄光が、このかおり高い至聖所をおおった。「私の魂のあらゆる部分が、神のご臨在を感じて高鳴っていた」と、のちに彼は言っている。両手を緑でいっぱいの上に向けて伸ばしながら、自分が絶望的な地の墓から救い出されたときの誓約を、ここで立てたのであった。そして、あとになってわかるように、彼は自分の宣教方針を変え、ついに、一千年間の教会史上最大の、神癒の代表的人物になったのである。説教家であった彼は、自分の誓約を三つの要点に分けた。それらは、みことばに対する彼の信仰の総合であり、それを永遠に信じてゆこうという決意の表れだった。「信ずるということは、なんとすばらしい事だろう」と彼は言っている。その誓約は、次のとおりである。

  1. 私は、神癒の真理を、神のみことばと、キリストの福音の一部分として、厳粛に受け入れます。
  2. 私は、生涯になすべき仕事をなし終えるまでの、すべての肉体の必要のために、主イエスを、肉体的ないのちとして受け入れます。
  3. この祝福を、神の栄光と、他の人々の益のために用いることを、おごそかに約束します。

   彼は、これらの事を熱意をこめて誓約し、おそれにわななきながら、主にささげたのだった。「その日、わたしはあなたに会うであろう」というみことばが、この日、彼の上に成就した。

   この松林の寺院を去るときの彼は、肉体的に全く変えられた人間だった。その後四、五日して、彼はいなかの方に、長距離のハイキングに出かけた。つい数日前まで墓が口を開いて彼が来るのを熱心に待っていた、あの弱い牧師がそれをしたのだ。そして、一千メートルほどの山に登った。彼はこのときの事を、喜ばしそうにこう書いている、「山の頂上に着いたとき、私はまるで、天国の門の所まで来たかのように感じた。弱さと恐れの世界は、私の足もとにひれ伏していた。そのときから私は、この胸の中に新しい心を持つに至ったのである」。古い悩みは、その後二度と彼をいざなうことはなかった。

   事実というものは、栄光あるものであると同時に、堅い、がんこなものである。そして、私たちの信仰を量るりっぱな基準になる。ウエスレーは、「どんな教理でも、実際に守ることができないとわかったら、まちがっているのではないかと一応疑ってみて、聖書の光に照らし合わせ、もう一度注意深く調べてみる必要がある」と言っている。もしそれが実際生活に適応できなかったら、聖書のほんとうの教えではないということは、ありそうな事である。その逆もまた真である。ここにひとりの男がいた。弱り果て、ほとんど生きていることができないほどだった。彼は聖書から、肉体に与える希望の教理として取り上げるべきみことばを発見した。彼のその発見は、まちがっていたかもしれなかった。しかしそれにより頼んだとき、彼は直ちに、そして完全に、健康になったのである。この事は、その教理が正しいという決定的証拠にはならないかもしれない。しかし、真実な探求者から、敬意をもって顧みられるに十分な重さを持つ、推定的証拠なのである。

   シンプソンは、この新しいいのちを、だれからも妨害されずに楽しむことはできないということが、まもなくわかってきた。すなわち、彼がやせこけた病人でいた間は、この病弱な若い牧師になんの関心も持たなかった人たちが、大ぜい立ち上がり、彼が再び健康になったといういやしの体験に反抗するために、彼に向かって前進して来たのである。彼らは、神が肉体をいやされると信じている彼の信仰を攻め立てて来た。そして、神はそのような事を全く何もなさららないと主張して、答えることのできない議論をふきかけた。

   このような異議に対しては、シンプソンは何一つ答えようとしなかった。議論する必要はなかったのだ。彼は、それよりもはるかによいものを持っていた。いまや彼は、豊かな、あふれるばかりの健康の持ち主だった。そして、その後三十五年間、健康のことで悩まされたことは、ほとんど一度もなかった。いやしを体験する前の彼は、同情せずにはいられないほど弱々しく見えた。しかし、あの松林の中での体験後、体重はふえ、躍動しているような健康の持ち主になったのだ。そればかりでなく、健康を維持する秘訣をも見いだしたのである。すなわち、空気中から酸素を取るように、日々主の中から肉体の力を得ることだった。それは宗教的空想ではないのだ。このとき以後の半生に、彼は、信仰がたじろぐほどの大きな働きをすることができた。実際、成し遂げた仕事の量から言うと、パウロやウェスレーを除いては、彼に比べうる人を思い浮かべることはできない。来る年ごとにその力あるわざを続け、休息とかレクリエーションの日というものは、ほとんど一日もないくらいだった。それは、彼の死ぬ数か月前まで続いた。これが、曲げることのできない事実なのだ。事実の裏をかくことはできない。私たちの信仰がどうであろうと、そこにある事実は、私たちに挑戦し、説明を要求する。たぶん、シンプソンの説明は、ほかのと同じくらいよい説明であろう。すなわち、「私は議論を引き起こしたくありません。ただ私は、事実を謙虚にあかしするだけです。私にとっては、それこそ真実であり、すばらしい事だからです。そして、それが主ご自身のわざであることを知っているからです」。

   率直に言って、彼に反対する人たちがすべて、学者やパリサイ人であったとは言い切れない。疑いもなく、真実な人々や、純粋なキリスト者たちでも、彼と意見が対立した人はたくさんあった。そして、月日がたつにつれ、彼に寄せられた非難の多くは、彼が肉体に及ぼす神のいのちの教理に固執したことによって招いたものであるということは、否定しえない。彼は、松林の中で誓約した三番目の事を忘れなかった。いやしの真理を、人類の祝福のために用いますと誓ったことを。そして、残りの生涯をかけて、神癒を説教したのだった。彼は常に、キリストの血による救いという、更に大きな真理の下にそれを置いてはいたが、悩める肉体のために、自分にゆだねられた任務を果たし続けたのだった。そして、彼の好むと好まざるとにかかわらず、A・B・シンプソンの名は、生涯、神癒の教理と結びつけられたのであった。

第十章 「雲の柱と火の柱」



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