Jaspella Gospel Guide
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生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
ガラテヤ人への手紙 2:20

A・B・シンプソンの生涯
第十三章 「地上へ」

   A・B・シンプソンは、偉大な説教家だった。彼が死んでその声が静まっ てしまったとき、マークイズ博士は彼のことを、「その声を二十五年間もニ ューヨークで聞くことのできた最も偉大な人間」であると言った。しかしシ ンプソンは実業家ではなかった。

   実業で成功するためには、地上すなわちこの世の、起伏ある有為転変の人 生に、同情と、魅力と、深い理解とを持っていなければならない。シンプソ ンは、そのようなものを全く持ち合わせていなかった。彼は、時には、必要 に迫られて地上に降りて来ることがあった。しかしもともと翼を広げて飛び 回るのが天性であったから、むりに地上に降ろされれば歩くことはしても、 当惑顔だった。わしでさえ、食物を確保するために、時には下に降りて来な ければならない。しかし地は、わしにとって本領ではないのだ。両翼の下に、 一千メートルの澄んだ空気を感ずる時だけが、最良の時なのである。

   シンプソンには、実業界で成功するのに必要な、自分のやり方のために戦 うという強固な精神はなかった。彼はあまりにも理想家はだでありすぎ、あ まりにも優しかった。また、他の人々の間に不正なしうちがあろうなどとは 夢にも思わずに信頼し、だれかが自分を疑っているかもしれないなどという 気持ちが起こることなど決してなかった。あるとき、ニューヨーク銀行の手 形が満期になるのを思い出して、助手に向かい、事もなげに言った。
「行って、一週間延ばしてくれと言って来なさい」。

   彼なら、他の人のために喜んで「一週間延ばす」だろう。それなら、他の 人たちも、彼のために、どうして同じ事をしないわけがあろうか----。彼に は、自分の言葉が常識はずれであるおかしさがわからなかったのである。

   商売を経営する手腕には欠けていたとは言え、早くから彼は、自分に必要 な収入を得るために世俗的な方法を採るという立場に立っていた。ある時期 には、「福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し」働いて生計を得てい たパウロをまねようと、決心したのだった(参照第一コリント九・一八)。 そのため彼は、タバナクルからも、また自分が会長であった団体からも、俸 給を受けようとはしなかった。しかし、献身的なキリスト者の間で非常な人 気があったから、もし彼が金銭的な報酬を受けることを選んだなら、思うだ けのものを容易に手に入れることができたであろう。この点に関しては、彼 の団体の人々は、ほとんど信ぜられないほど寛容だった(今日でさえ、クリ スチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスは、あらゆる宗教団体の 中で、ひとり当たりの献金額の多いことでは、毎年トップか、またはそれに 近い位置を占めている)。それゆえ、自分の大家族を十分養うに足りる俸給 を、当然受けることができたのである。しかし彼はそうしなかった。献金と いう名目で彼の金庫にはいって来るお金は、残らずその団体をささえるため に用いられた。

   シンプソンの個人的な収入は、彼がニューヨーク市内で経営していた種々 の企業から得たものだった。その一つにレストランがある(もっとも、その 実際的な経営面は、むすこのハワードが握っていたが)。これは、絶えざる 頭痛の種で、悲嘆以外の純益をもたらしたことは一度もなかった。このほか に、書店も経営していた。これは、海外宣教促進の文書のためにはよい販路 となったが、利益といってはほとんど何もなかった。これらの店のほかに、 印刷会社も市内で運営していた。この商売は小規模ではあったが、かなり成 功し、彼の家族が適度に落ち着いて暮らすに十分な収入を得ることができた。

   彼が五千ドルの俸給を返上して以来、家族は以前のようなぜいたくな暮ら しができなくなったため、家庭は、全く平和というわけにはいかなくなって しまった。シンプソン夫人は、最初、夫の幻を理解することができなかった。 金銭的な問題に関する夫の徹底した態度に同調することができなかったのだ。 彼女の現実的な性格では、信仰というような、手で触れることのできないも のだけで満足しようとは思わなかった。そのうえ、大きな家計をやりくりし ようにも、一銭もないことが一度ならずあるのだ。そのようなとき、シンプ ソンは、祈ってすべてを神の手にゆだねると、楽しそうに自分の仕事をしに 出て行くのだった。夫人は家にいて、子供の世話をしながら、ひとりで心配 事を背負った。そのようなわけで、シンプソンは当然受けるべき俸給を受け 取らないために大いに非難されたが、断固として自分の立場を変えなかった。 彼は、神が自分に期待しておられるものを知っていると思っていたので、そ れを理解した方法で神のみこころを行うことに、彼の平安があったのである。 彼は老齢になるまで、自分の霊的な働きからは一銭のお金も受け取らなかっ た。彼が年を取ったとき、役員たちは、善意による最後通牒を出して、晩年 彼が小額の手当を受け取るのを、むりに同意させたのだった。

   しかし、シンプソンは夢想家で、全く非現実的な男だったという印象を与 えることを、私たちは望んでいない。彼は、必要ならば、鋭い判断力とすば やい行動をとることのできる人間だった。あるとき、性質のよくない男が彼 の事務所にやって来て、彼から金銭をゆすり取ろうとしたことがあった。こ の男の言いがかりに対してなんらやましい事のなかったシンプソンは、彼と 議論することを避けた。そして黙ってその男のえり首をつかむと、廊下の外 に連れ出し、階段の下に投げ落としてしまった!

   この話は、神の人シンプ ソンの優しい性格からはおよそ考えられない事なので、ある人たちはほんと うの話ではないと思うかもしれない。しかし、多くの目撃者がいるのだ。ゆ すりに来た男が通りまでころげ落ちたのは、ある程度重力の働きがあったと は言え、男が落ちた最初の力は、シンプソン自身から出たことは確かな事実 なのである。

   彼は子供のころから、珍しいほど魅力のある顔つきをしていた。彼の写真 (あまり数多くはないが)を見ると----彼は幾つになってもカメラを向けら れると恥ずかしそうな顔をした----当然その外見は年とともに変わってはい ったが、どの年齢のときでも、驚くほど美しい顔だちをしている。若いころ は美服家であり、牧師仲間の「美しきブランメル」(注--イギリスの伊達男、 一七七八-一八四〇)だったと信ぜられる理由があるのだ。しかし、霊的面 が深まるにつれて外観のことを気にしなくなり、講壇上の彼の姿はいつも印 象的だったとは言え、後年の彼には、第一の務めを第一にしているという感 じがはっきり出ていた。彼のだぶだぶの上着は、まるで、初めゴリアテのた めに作られたのを縮めたのではないかと思われるほどで、チョッキのボタン はきちんとはまっていたことはなく、黒いネクタイは、悲しむべき習性があ っていつも右肩か左肩の方に曲がり、説教の間じゅう、楽しそうにその場所 にぶら下がっていた。しかし、聴衆はたいてい五分以内に、チョッキのボタ ンがはずれていることや、ネクタイが曲がっていることなど、忘れてしまう のだった。彼らは、キリストを描き出すという最高の芸術に熟達した人の話 を聞いていたため、服装など問題にしなかったのだ。

   家にいるときの彼は、静かで、自分の考えにふけっていることが多かった。 決して大声を出したことはなく、いつも、人を慰める低い調子で話した。だ れかが彼に対して何か親切な事をしたとき以外、あまりしゃべることはなか った。そのようなときには、感謝の言葉が彼の口からあふれ出て来るのであ る。また夜は、午前一時か二時前に寝ることはめったになかった。夕食が終 わると自分の部屋に引きこもり、祈りと著作にふけった。こうして、彼の半 生を通じてその心から絶え間なく流れ出たものを、数えきれないほどの本や 論文にまとめた。

   ある日、友人がシンプソン夫人に聞いた。 「奥さん、私は不思議でたまらないのですが、なぜお宅のベッドのカバーに は、そこらじゅうインクのしみがついているのですか」。

   年月がたつにつれて忍耐強くなっていたシンプソン夫人は、こう答えた。 「うちの人なんですよ。あの人はベッドで物を書きますの。そして時々うと うとしますので、ペンがベッドに落ちるのですよ。それでこんなにしみがつ いてしまいますの」。

   彼はいつも次の朝早く起きて、六時の汽車でニューヨークに行った。四時 間の睡眠でどうしてやってゆけたのかは、私たちが世界の偉人の伝記を調べ るときに時々ぶつかる不思議な事の一つである。私たちはそれを説明しよう とは思わない。

   シンプソンは、薬について信念を持ち、神癒の光に照らされてからという ものは、どのようなときでも決して医薬を用いたことはなかった。そしてこ の信念を、自分と神との間の個人的な事として、賢くも自分ひとりだけにと どめておき、決して、他の人たちの良心にその信念を無理押しするようなこ とはしなかった。つまり、彼に従った者たちのある者がいだいていたように、 医者に対して恐怖症になっていたわけではなかったのである。だから、質問 者が来ると、「もし自分のいやしに信仰が持てないのでしたら、経済が許す かぎりいちばんよい医者のところに行きなさい」と言ったものだった。また 時には、もしせき止めのドロップも医薬の中に含まれるのなら、確かに薬を 用いることもあった。と言うのは、のどのぐあいが悪いときなど、のどをな めらかにするために、時々せき止めのドロップを持ち歩いたこともあったの だ。あるとき、ピッツバークのカーネギー・ホールで説教したときのことだ った。彼はポケットに手を入れてハンカチを取り出そうとした。すると、ハ ンカチといっしょに、ひとつかみほどのせき止めドロップが出て来て、まる でおはじきのように、講壇じゅうにころがった。シンプソンは微笑を浮かべ、 まじめな態度でこの立場を受け入れて、面目を失ったような様子は少しも見 えなかった。彼のあとには、彼が自分の説教する事と違った生き方をしてい ることが証明できるならいくらでもお金を出そうという反対者が、絶えずつ きまとっていたことを思い起こすとき、これは相当な偉業であると言わなけ ればならない。

   南部のある大学が、シンプソンの学識と、その顕著な業績を認めて、神学 博士の学位を申し出たが、非常に謙そんな彼は、それを辞退した。「兄弟の 中で最も卑しい者と言われる以上に、いかなる事にせよ、高く上げられる」 ような栄誉を望んでいないという単純な理由からであった。この話の責任者 である彼の友人ケネス・マケンジは、これはシンプソンの考え違いであると 思っているようである。マケンジは、そのようなものを非常に重く見る宗教 界にあって学位を持つことは、ある有用な威信を彼に与えることになると信 じていた。この事に関しては、私は意見を述べることを差し控える。しかし シンプソンは、とうとう学位から逃げられなくなってしまった。彼のことを 感謝していたその仲間が、一種の霊的本能から、彼に学位を授けたのである。 いやいやながらではあったが、彼はそれを、死ぬまで、肩書きとして持って いた。

第十四章 「ハレルヤ! 私は疲れた」



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