Jaspella Gospel Guide
facebook




すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11:28

A・B・シンプソンの生涯
第十四章 「ハレルヤ! 私は疲れた」

   クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスの急速な発展に伴い、シンプソンの肩には、労苦と責任との重荷が絶えず増し加えられていった。ダビデのように、彼の回りには「勇士」たちがいたので、実際の仕事の多くは彼らに任せてあったが、仕事の性質上、彼は絶えず動いていなければならなかった。彼と全く同じ働きのできる人は、ひとりもいなかった。彼は自分の団体の選出された長であったばかりでなく、その運動の、霊の父親でもあった。そして、仕事のあらゆる細かい事に至るまで、自分の心に従って実行した。

   彼はまた、多作の著述家で、七十冊以上の本を著わし、何千という説教を印刷し、幾百もの賛美歌を作り、そして、それこそ数えきれないほど多くの論文や編集記事を、雑誌に掲載した。また、年じゅう旅行していた。合衆国およびカナダ全域の大きな修養会には、ほとんど顔を出して、少なくとも数日間滞在し、その途中では、他の教会や団体と交わるために、一晩か二晩そこに泊まり、それが終わるとすぐに自分の講壇と事務所に引き返して、次の予定の他の土地に再び旅行に出る前に、山のようにたまっている仕事を下からかたづけてゆくのだった。

   彼は、自分の団体の、宣教師養成学校および長年の間に数を増していった多くの学校の公認の校長であった。彼はそれらの学校で教え、この世の事業の運営にできる限りの最善を尽くし、理事会の司会をし、ほとんどすべての修養会や総会において方針演説を行った。

   彼の上に増し加えられていったその他の義務の中には、自分の団体が長年月のうちに何度も遭遇した危険の中から彼らを正しい方向に導くということがあった。これは普通、教義的な事であったが、時には政策にも影響したことがあった。また、彼は気質から言って、神学上の論戦ほど不愉快な仕事はほかになかった。彼は反ばくすることをきらい、論戦を仕掛けられると首を縮めたが、主がその戦いを導いて下さるときには、論戦が必要であることも認めていた。

   二十世紀の初めにペンテコステ運動が台頭してきたため、シンプソンにとって悩みの種は尽きなくなってしまった。教義的には、彼らはシンプソンの立場と非常に近かった。あまり近かったため、シンプソンのグループの教えを支援すると公言したほどであった。しかし、ペンテコステのグループが他のどのグループともはっきり違っている一つの教理こそ、彼が否定し続けていたものであったことを、彼らは都合よく忘れていたのだ。ペンテコステにも多くのよい人たちがおり、またその信奉者には感嘆すべき特色がたくさんあった。シンプソンは確証を十分に得るまで、彼らについて批判しようとは思っていなかった。

   いよいよ時期が熟したと思ったとき、シンプソンは、自分の立場を明らかにした声明書を発表して、異言の教理とははっきり関係を絶つことを宣言した。彼の言葉は優しかったが、断固としていた。このとき以来、彼の立場を疑う者はひとりもなくなった。

   シンプソンがタバナクルと海外宣教団体の発展途上の早期において、解決しなければならなかったもう一つの問題に、神癒自体を彼らの最も中心的な目的とすべきか、それとも、それはいかなる神の子でも経験できる特権として人々に伝えるべきか、しかしそうすれば、それは福音宣教の中心点とはならないが----ということがあった。彼のアライアンス教団のメッセージでは、いやしがさきに来るべきだろうか、それとも救いがさきに来るべきだろうか----?

   オーストラリアからアメリカに来たスコットランド系の説教家ジョン・アレグザンダー・ダウィーは、シンプソンをむりに動かして、彼とその団体に関係する神癒の問題をすべて整理させたが、この事においてダウィーは、間接的に大いに彼のために尽くしたと言える。ダウィーにはいやし以外何も見えなかった。彼は、いやしこそ、自分のほとんど全力をささげるに足りるほど崇高かつ重大な事だと思っていた。彼はシンプソンに向かい、ふたりが力を合わせて、国じゅうを、神癒の説教をして歩こうではないかと提案して来た。シンプソンは異議を唱えて言った。
「いや、ダウィー兄弟、私の馬車には車が四つついていますのでね。その中の一つのために全部の時間をささげて他の三つを無視するというわけにはゆかないのですよ」。

   衝動的で激しい性格の持ち主だったダウィーは、この事から、たちまちシンプソンに敵対しはじめ、公衆の面前で、シンプソンの評判を悪くするような事を堂々と言いだした。彼は、合衆国内のおもだった都市で、一連の講演会を開いて、シンプソンをずたずたに引き裂き、そのうえ更に踏みつけようようと計画を立てた。それに対してシンプソンは、あえて反ばくしようとはしなかった。シンプソン反対運動の開催の地として、まずピッツバーグが選ばれた。群衆は、あの有名なジョン・アレグザンダー・ダウィーの説教を聞こうとして、大きな会場になだれ込んだ。その晩、講演の始まる一時間ほど前、ダウィーは、夕食に魚を食べていた。するとのどに小さな骨が突き刺さってしまった。群衆は待っていた。時間はどんどん過ぎてゆくのに説教者は現れない。そしてとうとう彼は来なかった。このできごとは、ダウィーの計画を根本から変えてしまった。彼は巡回講演の計画を取り消して、のどの傷をいやすために、自分の家に帰って行った。シンプソンはこれを聞いたとき、事もなげに言った。
「ああ、ダウィーですか。あの男のことは、とうの昔に神にお任せしてしまいましたよ」。

   シンプソンは、自分の追随者のある者の、正直ではあるが思慮のない行為に、しばしば悩まされた。彼の海外宣教に対するアピールが非常に力強かったので、それを聞いた人々は前に進み出て、海外での働きのためにすぐ現金に替えられるように、多くの貴重品をささげ物として祭壇の上に置いた。これは全く自分から進んでしたことで、決して強制的なものではなかった。そして、それが自発的なものであるかぎり、美しい愛の表現だった。ある大きな修養会では、海外のためにささげられた時計や指輪、その他の装飾品が幾つものかごにあふれた。しかし中には、主の働きにあまり興味を持っていない人たちが、自分の妻がアライアンスの修養会で持っていた貴重品を全部ささげていしまい、自分が祭壇の前ではめてやった指輪までもなくして帰って来たのを知って怒りを爆発させた、というような例もあった。こうした人々がシンプソンを悩ませたのである。

   新聞は、この事に非常な関心を寄せた。これは彼らのいるすぐ下で行われたので、詳しくこの事を載せた。ちょうどそのころは、催眠術が大衆にはいり込んで来たころであったため、この新しいにせの科学がシンプソンの集会でも行われるのではないかと思われだした。シンプソンは催眠術師で、この術を聴衆に使って、自分で使うお金を彼らから引き出しているというのだ。巨大なおけの印刷用インクが、あわ立ち、煮えたぎるほど、そのために使われたのではないかと思われるほど、多くの印刷物が、その記事を載せて国じゅうに散らばった。そして突然それもやんだ。ニュース記者が、何かほかに読者をおもしろがらせる種を見つけたのか、シンプソンのことは忘れられてしまった。

   伝道の視野と力が大きくなるにつれ、彼は以上のような問題と取り組まなければならなかった。しかも彼は生まれつきそのような事には不向きだったのだ。彼はそれに閉口し、精神的に疲れてしまった。そのために、年よりも早く老いてしまったほどである。

   こうした無数の活動の最中に、彼はどうにかして時間を見つけ、何度も海外旅行に出て行った。一八九三年、彼はいちばん長い旅行に出た。一月にニューヨークを出発し、それから地球を一周して、アメリカに帰ったのは七か月後であった。この旅行で彼は、アライアンスのほとんどのミッションにタッチし、聖地、インド、中国、日本なども回った。

   一つの生涯の中に、どのようにしてこれほど多くの活動を詰め込むことができたのか、それは、神と彼との秘密である。私は知ったかぶりをすまい。そのうえ、彼は休息したことがなかった。ほとんど一日の休みも取らなかった。休暇などというものは、彼にとっては、知らない言葉だった。一度、彼は二、三日どこかに行って休もうとしたことがあった。ところが、行ってみるとかえって落ち着かなくなり、ついに断念して、急いで事務所に飛んで帰り、その緊張感からのがれたものだった! 彼は、いつも何かしていなければならなかった。もし彼が、もう少し自分のからだを大事にしていたら、あと数年長生きしたかもしれない。しかし、だれがそんなことを願うだろうか。少なくとも彼はそんなことは思っていなかった。彼は、瞬間瞬間に自分に示された計画に従って自分の人生を生きたのに違いない。もし彼が働きすぎたのなら、それは神と人とを愛するためだった。もしそれが欠点であるなら、それはだれにもある欠点ではなかった。

   「聖書、業、世界」誌の初めのころのある号に、シンプソンは、十三歳になるスーダンのキリスト者の少女の話を載せた。少女は重い荷物を頭に載せて、ほとんど休みもなしに三日間の集団旅行について歩かなければならなかった。彼女は哀れにも疲れ果てたが、キリスト者であったため決して不平を言わなかった。どんなに疲れても、主を賛美しなければならないと思っていたのだ。とうとう一歩も歩けなくなってしまった。気力を失ってくずれるように倒れると、涙にむせびながら叫んだ。「ハレルヤ! 私は疲れた」。

   A・B・シンプソンは疲れていた。しかし、不平を言おうとはしなかったそして肉体、は若い日のように軽やかに動かなくなっていたとは言え、まだ彼の心は、主の箱の前で踊っていたのである。

第十五章 「落 日」



Arisu Communications

JCFN New York