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これまでは、NYのマンハッタンからお送りしていた『てんぷる通信』ですが、私の帰国に伴い、今回はウルトラドメスティックな滋賀県からです。 朝晩涼しくなってきました。夏が終わり、秋も深まりつつあります。 田んぼの稲刈りもほぼ終わり、冬支度が始まっています。 私は、9月7日に帰国しました。帰国が決まった時、何となく、9月11日の一周年を迎える前に、マンハッタンを離れたいと思い、6日にJFKを発ちました。 結局、昨年以来、一度もグラウンド・ゼロを訪れることはありませんでした。 最後に見ておこうかな、とも思ったのですが、もう少し時間が必要だと感じたので、またいつかNYに来る機会はあるだろうからその時にしよう、と思いました。 9月11日より少し前から、日本でも、いろいろな特集番組が放送されていたので、嫌でも当日のことが思い出されました。 でも、11日は、入院していた母の手術日でもあり、そちらの方が今の私にとっては身近で大変なことだったので、昨年のテロについて深く感慨にふけることもなく、病院と実家との往復で忙しくしていました(母はその後順調に回復し、退院しましたので、ご心配なく)。 そんな中でも、時々見るテレビの報道番組の出演者たちによる発言や、 マスコミの報道、インターネット上で交わされる意見交換などを見ていると、 中には考えさせられるものもありましたが、あまりに無責任と思えるものもあったので、 そのようなものを見るにつけ、「だって、あなたたちは、その場にいなかったじゃない。 私は、マンハッタンにいたんだよ。」って心の中でずっと思っていました。 でも、だからこそ、このことについての発言は控えよう、とも思っていました。 でも、ある時、ひとりで外を歩いている時に、「私は、そのときNYにいた。あなたは、いなかった。 っていう区別をしているけれど、じゃぁ、自分で十字架にかからなかった私は何者なんだろう。」と思ったんです。 現場にいたことがそんなに大切なら、「イエスさまの身代わりの十字架」なんていう概念は通用しないんじゃないのかな、と。 私は、アダムとエバが罪を犯したその場にはいなかった。だから罪がない、ということにはならない。 約2000年前に、イエス・キリストが十字架にかかられた時、私は、その場にはいなかった。 だから、それも私とは無関係。だとしたら、救いも何もなくなってしまいます。 「このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。(ローマ人への手紙5章18節)」とあるように、 いつの時代に生きていようとも、人間として生まれてきた以上、罪の性質は持っており、イエス・キリストの十字架による贖いが必要な私たちです。 確かに昨年の9月11日にマンハッタンにいたからこそ、見たこと、聞いたこと、感じたこと、はたくさんあります。 でも、「そこにいた私」、は決して「そこにいなかった他の人たち」よりもこのテロのことを語る資格がある、とか、私が感じたことの方が外から見ている人が感じたことよりも正しい、とか、そんなことは言えないと思いました。 あれから1年が過ぎて、冷静に振り返れるようにもなってきたので、次回(Vol. 6)も、もう少し、このことについて触れたいと思います。
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